魔鏡通信

それ文は心を映す鏡なれば、徒然なるよしなしごとも己が魂の声なり。 ここに魔鏡とてあやしき鏡あり。胡乱なる作者の心を映じて、 五月蝿なす悪文駄文を吐き散らし、平成の世の禍となす。 これを見る人、酔客の戯れとて一夜の夢に忘れたまうことを願ふ。 臥幽散人記す。

ぼくは本屋のおやじさん

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再読。

作者はかつてジャックスというバンドをやっていて、その後ソロでも「サルビアの花」などの名曲を生み出した早川義夫さん。私はジャックスの「からっぽの世界」という曲を初めて聴いたとき、触れてはいけないものに触れてしまった、という感を抱いたが、同時に、心の何処かでは、泥沼から出る青白い手に足を掴まれるような、妙な引っかかりを感じていた。その後、「君をさらって」や「マリアンヌ」を聴いていく中で、どんどんジャックスが好きになっていった。
そんな早川さんが25歳の時、音楽をやめて本屋のおやじさんに転身してしまった。「できれば、好きな本だけを集めたような、あまり売れなくてもいいような、猫でも抱いて一日中坐っていれば、毎日が過ぎていくような、そんなのどかな」生活を目指して本屋を始めたものの、出版社から欲しい本がなかなか回ってこなかったり、へんな客の存在に頭を痛めたり、出版社の横柄な態度にイラついたり、お客さんからの注文品を手に入れるために出版社や他の本屋を回ったりと、最初の理想は何処へやらな日々が続く。そんな厳しい現実と理想との間で悪戦苦闘する作者のエピソードや思いをまとめた本。

今でこそ、ネット環境やamazonがあって、自分の読みたいと思った本はすぐに買うことができるが、そういうものがない時代に私のような田舎者が本を手に入れようとすると、町の本屋さんでの偶然の出会いか、高い電車賃を払って新宿の紀伊国屋書店みたいな大きな本屋へ遠征するか、新聞の新刊案内で面白そうな本を見て、本屋さんに取り寄せてもらうかしかなかった。
自分がそんなことをやっていた90年代には、もしかしたらすでに本離れだの本屋の廃業だのが言われ始めてたのかも知れない。だけどまだあまりネットの普及していなかったので、町の本屋さんの存在が今よりも一層重要なものだった。
読んでいるとなんだか、昔欲しい本を手に入れるために自転車で町の本屋さんを駆け巡っていた頃の懐かしい記憶が蘇ってくる。当時は欲しい本がなかなかなくなって、「なんて品揃えの悪い本屋だ!」と苛立ったこともあったけど、こんな客がいる裏で、本屋さんはこんなに苦労していたのか、ということが分かってなんだか申し訳ないような気持ちになる。

小さな町の小さな本屋は、ちょうど、急行の止まらない駅のようなものだ。なおかつ、これといった特色のない町での本屋は、いったい、何に特色を出せばよいのかわからない。同じ町に住んで、同じ町の人と歩む(p70)

理想とのギャップによる葛藤や愚痴ばかりが書かれているのではない。
早川さんは「読書手帖」という冊子を発行してお客さんと交流したり、つげ義春の「紅い花」の絵を印刷したブックカバーを作ったりと、面白い試みをしている。いろいろ大変なこともありつつ、本屋さん稼業を楽しんでいたんじゃないか。本屋をやめることを考えていたある日、ふと自分の店こそが一番いごこちのよい場所だったと感じるエピソードは、当たり前のことが実は一番尊いものだということに気づかせてくれる。


以下、印象深かった言葉。
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・嫌なことを、やりたくないことを無理矢理やっているからトラブルが起きるのだ。今でもそう思う。

・結局は、ヒトなのである。運よく、肌が合うヒトと出会えるか出会えないかで随分違う。

・本なんていうのは、読まなくてすむのなら、読まないにこしたことはない。読まずにいられないから読むのであって、なによりもそばに置いておきたいから買うのであって、読んでいるから、えらいわけでも、知っているから、えらいわけでもないのだ。

・気弱なものが遠慮して、図々しいものだけが得するような、そんな世界は、できることなら、つくりたくない。

・この仕事が自分には向いていないと思う。しかし、何が向いているかといえば何もない。いごこちのよさそうなところが、他にありそうな気がするのだが、どこにもない。

片足だけ出す犬

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うちの犬は寝る時に片足だけ出している。
いつでも臨戦態勢に入れるようにするためか。

これを見ると、いつも夔(き)を思い出す。

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古代中国の地理書である「山海経」に曰く、
東海の流波山に牛のような蒼い一足の獣がいて、これが水に出入りすると風雨を伴い、その光は日月の如く、その声は雷のようだという。黄帝がこの獣の皮で太鼓を作り、雷獣の骨で叩いたところ、五百里先まで轟いたという。
本朝の山梨岡神社にも、まるで臓器のような形の不思議な「夔ノ神」の木像が伝わっている。

昔の漫画

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小学校の時に描いた漫画を読む。
絵は雑で下手だしコマ割はフリーハンドだし鉛筆で適当に塗ってあるけれど、素直に面白く読める。かつては体裁を気にせず、下書きもない状態で創作意欲の赴くままに絵が描けたので良かった。今は細かい粗が気になりすぎて、気取ったものを作ろう作ろうとしていたら、とうとう描けるものがなくなってしまった。

芸に必要なのは勢いだと思う。人が何かの道を極めていくためには勢いが必要だと思う。
絵画でも音楽でもプロの人の仕事を見るに、タッチに迷いがない。商業的なものである以上、ある程度人の目は気にするのかも知れないが、筆を運ぶ瞬間、撥で弦を叩くその瞬間には一点に集中しており、迷う暇がない。素人や下手な人であればあるほど、間違うことを恐れて勢いが失われており、却ってミスしたり線を重ねてごわごわめそめそしており、見ていて面白くないものになっていると思う。
自分の昔の漫画は、技術が圧倒的にないため素人くさくて下手くそだが、勢いだけはあると思う。今こんなものを描けと言われたって、もう絶対に無理だろう。

世の中窮屈すぎてやりづらいことばかりだが、誰かが怖くて何かができるか。
その殻を破れば、最初はやりにくいかも知れないが必ず上達の道が待っている。だが、この一歩がなかなか踏み出せないのだからなかなか困ったものである。

クラムボン考

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二疋ひきの蟹かにの子供らが青じろい水の底で話していました。
クラムボンはわらったよ。』
クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
クラムボンは跳はねてわらったよ。』
クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
 上の方や横の方は、青くくらく鋼はがねのように見えます。そのなめらかな天井てんじょうを、つぶつぶ暗い泡あわが流れて行きます。
クラムボンはわらっていたよ。』
クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』
 つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六粒つぶ泡を吐はきました。それはゆれながら水銀のように光って斜ななめに上の方へのぼって行きました。
 つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。
クラムボンは死んだよ。』
クラムボンは殺されたよ。』
クラムボンは死んでしまったよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚あしの中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら云いいました。
『わからない。』
 魚がまたツウと戻もどって下流のほうへ行きました。
クラムボンはわらったよ。』
『わらった。』
 にわかにパッと明るくなり、日光の黄金きんは夢ゆめのように水の中に降って来ました。

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クラムボンというのは、一体なんなんだろう。
短編「やまなし」の中では、これがクラムボンだと明言しておらず、読めば読むほど謎が深まるばかりである。小学校の国語の時間に「やまなし」が取り上げられた時、確か「クラムボンとは何なのでしょう?」という問いが出たような気がする。今となってはなんと回答したのかわからないが、それ以降、この作品に触れるたびにその問いが記憶の深淵から浮かび上がってくるような思いだった。

ネット上での意見を見てみると、泡とか光とか魚とかプランクトンだという説が出ているようだ。
泡という説は、つぶつぶした泡の描写とともに蟹の子供の台詞が入るから、なんか関わりがありそうな気がしてくるが、その後の12月の段で「泡」という言葉を発していることから変な感じがしないでもない。もっとも、クラムボンは蟹の幼児語だという説もあるから、そうするとこの呼び方の違いは5月から12月の間の蟹の子の成長を表しているのかも知れない。
光は水面に反射する光のことか。ようわからん。
魚だとすると、クラムボンの出てくる5月の段で蟹の子が「あのお魚」と呼んでいるから、泡説にも増して辻褄が合わなくなってくる。
プランクトン説とちょっと似ているが、私が思いついたのは「クラムボン=蟹の幼生(ゾエア)」説。蟹の英名crabと赤ん坊の「坊」の合成クラブボウ→クラムボンじゃないかと思った。殺されたクラムボンがまた笑うというのは、魚に食べられたクラムボンと魚が去った後に笑ったクラムボンは別物で、クラムボンがわらわらと集まっているような印象を受ける。 
※ただし、いろいろ調べているうちに、この説の弱点を見つけてしまった。なんと川にすむ蟹(サワガニ)はゾエアにならず、蟹の形で卵から生まれくるそうだ。

解釈すること自体が野暮かも知れないが、作品を読みながらいろいろ想像するのは楽しい。


コロボックル(アイヌの伝説に登場する小人)説

ちなみに妖怪つながりでの連想だが、賢治の故郷である岩手県花巻の隣は柳田國男の「遠野物語」の舞台となった遠野があるが、この地方では蔵にすむ座敷童子のような妖怪「蔵ぼっこ」の伝承がある。ぼっこというのは、賢治が「ざしき童子のはなし」の中で童子をわざわざ「ぼっこ」と読ませているように、子供のことらしい。人前に姿は見せず、声や足跡で存在を示すという妖怪だが、語感がクラムボンコロボックルと通じるものがある。ただし、コロボックルにせよ蔵ぼっこにせよ、蟹の住む水界に現れるのは、少し唐突な気がしないでもない。

◉諸説がまとめられたサイト(興味深い)

アイヌ語からのアプローチ

はじまりの賦

最近、趣味(琵琶)の関係で二回ほど文章を書く機会に恵まれたが、いざ書こうと思ってパソコンに向かうと、なかなか文章がすらすらと出てこない。そういえば最近、仕事以外で長文を書く機会ってなかなかないなあと思い、自らの文章作成能力の衰えに危機感を抱き、学生時代よりこのかた辞めていたブログを再び始めることとした。
中学時代、担任に提出する連絡表の今日の出来事欄に「特になし」と書いたら、コメント欄に赤い字で「頭の中と同じ」と書かれて戻ってきたことがある。何も考えないで無為に過ごすというのは、たまにはいいけど毎日だと考える力が衰えるということだろう。本ブログが、五年くらい空っぽの頭で過ごしてきた私が「考える力」を取り戻すまでの、頭のリハビリに役立つことを願うばかりである。

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書く内容は日常のくだらないことや、二年前から続けている筑前琵琶のあれこれ、また、これまた十年以上前から続けている読書についてなどが主な題材になると思う。気まぐれで書いたり書かなかったりもあるだろう。どうかよろしくお願いします。

※画像は特に内容と関係ありません。