クラムボン考
二疋ひきの蟹かにの子供らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳はねてわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
上の方や横の方は、青くくらく鋼はがねのように見えます。そのなめらかな天井てんじょうを、つぶつぶ暗い泡あわが流れて行きます。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』
つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六粒つぶ泡を吐はきました。それはゆれながら水銀のように光って斜ななめに上の方へのぼって行きました。
つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまったよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚あしの中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら云いいました。
『わからない。』
魚がまたツウと戻もどって下流のほうへ行きました。
『クラムボンはわらったよ。』
『わらった。』
にわかにパッと明るくなり、日光の黄金きんは夢ゆめのように水の中に降って来ました。
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クラムボンというのは、一体なんなんだろう。
短編「やまなし」の中では、これがクラムボンだと明言しておらず、読めば読むほど謎が深まるばかりである。小学校の国語の時間に「やまなし」が取り上げられた時、確か「クラムボンとは何なのでしょう?」という問いが出たような気がする。今となってはなんと回答したのかわからないが、それ以降、この作品に触れるたびにその問いが記憶の深淵から浮かび上がってくるような思いだった。
ネット上での意見を見てみると、泡とか光とか魚とかプランクトンだという説が出ているようだ。
泡という説は、つぶつぶした泡の描写とともに蟹の子供の台詞が入るから、なんか関わりがありそうな気がしてくるが、その後の12月の段で「泡」という言葉を発していることから変な感じがしないでもない。もっとも、クラムボンは蟹の幼児語だという説もあるから、そうするとこの呼び方の違いは5月から12月の間の蟹の子の成長を表しているのかも知れない。
光は水面に反射する光のことか。ようわからん。
魚だとすると、クラムボンの出てくる5月の段で蟹の子が「あのお魚」と呼んでいるから、泡説にも増して辻褄が合わなくなってくる。
プランクトン説とちょっと似ているが、私が思いついたのは「クラムボン=蟹の幼生(ゾエア)」説。蟹の英名crabと赤ん坊の「坊」の合成クラブボウ→クラムボンじゃないかと思った。殺されたクラムボンがまた笑うというのは、魚に食べられたクラムボンと魚が去った後に笑ったクラムボンは別物で、クラムボンがわらわらと集まっているような印象を受ける。
※ただし、いろいろ調べているうちに、この説の弱点を見つけてしまった。なんと川にすむ蟹(サワガニ)はゾエアにならず、蟹の形で卵から生まれくるそうだ。
解釈すること自体が野暮かも知れないが、作品を読みながらいろいろ想像するのは楽しい。
ちなみに妖怪つながりでの連想だが、賢治の故郷である岩手県花巻の隣は柳田國男の「遠野物語」の舞台となった遠野があるが、この地方では蔵にすむ座敷童子のような妖怪「蔵ぼっこ」の伝承がある。ぼっこというのは、賢治が「ざしき童子のはなし」の中で童子をわざわざ「ぼっこ」と読ませているように、子供のことらしい。人前に姿は見せず、声や足跡で存在を示すという妖怪だが、語感がクラムボンやコロボックルと通じるものがある。ただし、コロボックルにせよ蔵ぼっこにせよ、蟹の住む水界に現れるのは、少し唐突な気がしないでもない。
◉諸説がまとめられたサイト(興味深い)
◉アイヌ語からのアプローチ